人気ブログランキング | 話題のタグを見る

最後のユニコーン

もしも人間たちが、単にユニコーンのことを忘れ去ってしまったというのなら、わたしにもわかる。あるいは、かれらが変ってしまって、今ではすべてのユニコーンを憎むようになり、その姿をみかけたら、殺してしまおうとするようになったというのなら、まだわかる。けれども、ユニコーンをまったく見ようとせずに、わたしたちを見ながらも、別のものを見てしまうというのは、わたしにはわからない。それでは、人間たちには、お互いが、どのように見えているというのだろうか?いったいかれらには、木はどう見えているのだろう、あるいは家は、本当の馬は、あるいは自分自身の子供たちは?(p17)

ユニコーンをめぐる複数のおとぎ話が重なり合い、それぞれの主役である魔術師は魔法を使える時まで、王子=英雄は悪(と便宜上呼ばれるもの)を打ち負かすまで、闇の王は破滅するまで、要求された役割を演じながら自分自身の存在意義と向かい合わなくてはならない。たとえば、おとぎ話につきものの魔術師は魔法が使えない。自分のことを「何者でもない」と言える醒めた現実認識。魔法は物語の要求した時に彼の身体と立場を借りて出現するものだと知っているから「そのために、英雄が、いるのです」と自嘲する。
かれは思った、いや言ったのかもしれぬ。歌ったのかもしれぬ。
知らなかった、自分がこれほどまで満たされるほどに、空っぽであったとは。(p262)

おとぎ話の記号から、(たとえ虚構の中の存在であっても)彼が真の魔術師シュメンドリックに生まれ変わった瞬間。
自分は誰かのみている夢の中の存在に過ぎず、その誰かの目が覚めたら跡形もなく消え失せてしまうかもしれない、と子どもの頃に何度か考えてみたことがあるが、ユニコーンと赤い牡牛の戦いを見守るモリーなどいつの間にか第三者(観客や作者)の目で彼女自身の現実であるところの物語を俯瞰するはめになる。きついなぁ。
あたかも、ハガード王のいる塔よりも、もっと高い塔の上に立っているかのように、彼女は色青ざめた大地のかけらを見降ろしているのだった。そこには、おもちゃの男と女が、縫いつけられた目で、粘土の牡牛とちっぽけな象牙のユニコーンを見つめているのだった。放り出され、見捨てられたおもちゃたち - そこにはまた、もう一つ、半ば埋められた人形があり、砂の城があった。その城の傾いた塔の上には、木製の王がたてかけられていた。(p270)

身も蓋もないというか……
英雄として戦う王子も英雄を演じる見返りとしてハッピー・エンドを要求するが、物語は統治するべき国(廃墟)と民を彼の運命として与える。
そしてあなたは - あなたは、ぼくの残りの人生の間、どこにいるのですか?
今頃は、あなたの森に帰っているものだとばかり、思っていたのです。(p292)

おとぎ話の中で年を取り死んでゆく彼らと別れたユニコーンは森に戻るというが、内面はもはや森にふさわしいユニコーンではない。彼女はその永遠を死ぬこともできず、人間として身につけた死の恐怖や飢えや後悔(することができる)の痕跡を抱きしめたままさまよい続けなくてはならないことを覚悟している。
なんとなく七瀬やエドガーやウラジーミルを連想するな。ファンタジーの舞台裏。これを読んだら、もうほかのファンタジーに手が伸びなくなりそうだ。映画化が決まっていて、闇の王ハガードに「あの」クリストファー・リー、いくつになっても好々爺の役には縁遠い人だ。

by drift_glass | 2007-04-07 07:51 | 読む  

<< Last Orders 博士と狂人 >>